生命に関する始まりと終わりの認識
およそ全ての人間は、生まれたときのことを覚えていない。
少なくとも、生まれたときのことを自信を持って話してくれた人にはいまだかつてお会いしたことがない。
何となく知っている風な人も、それはその人自身の記憶ではなく、親から聞かされた話を自分の記憶だと思っているに過ぎない。
私たち人間は、皆将来的に死ぬことに決まっている。私たち以前の人生の先輩たちも、皆すべからく死すべき人間として生き、皆例外なく死んでいった。
「死ぬ」という概念は誰もが頭では何となく理解していながら、その実態は誰もよくわかっていない。
過去の哲学者の書いた書物などを見てみても、誰もが死に対して異常な興味を抱いているとともに、誰も「死ぬ」ということがどういうことなのか、よくわかっていない。
しかしそれは当たり前である。
なぜなら、生まれたときのことを覚えていないからである。
物事にはすべて、始まりと終わりの両端がある。
私たちはこのことを了解しているはずである。
私たちは、どんな形のある物もいつかは滅びる、ということを知っている。
どんな生命もいつかは滅びる、ということを知っている。
それと同時に、自分の生命もいつかは滅びる、ということも知っている。
ところが、私たちは自分の生命の始まりの瞬間を知らない。
始まりを認識できていない以上、終わりを認識することは極めて難しい。
ロープの先が見えず、地平の先から先まで続いているのを見るならば、「どこかに始まりがあってどこかに終わりはあるのだろうけれど、これは果てしなく続きそうだ」と思うだろう。
それゆえ、先人たちの死を幾度も目の当たりにしながら、自分の死については格別意識しておらず、あたかも永遠に生きるかのように日々を送っているのである。
「生まれる瞬間にもっと頑張って意識を集中しておけば覚えておけたのになあ」と思わなくもないが、もしも覚えていれば死に対する恐怖心はより募っていたに違いない。
始まりを認識してしまえば、終わりもより鮮明に認識せざるを得なくなる。
生命の始まりと終わりを認識していないからこそ、私たちは今日も相変わらず生きていけるのだろう。
生まれたときを知らないということは、この世界が私たちに示してくれた、一つの優しさのようにも思える。