思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

失恋の弊害

恋愛は誰もが経験するべきもので、時には手痛い結果である失恋も、人生経験においては大切なことだと言われることがある。
これには私も賛成である。これほどに幸福と絶望が凝縮されるイベントは、恋愛を置いて他にはないのではないかとも思える。

 

しかしあらゆる物事が表裏一体であるように、恋愛がもたらす弊害もあると考えている。
今日は手痛い結果である「失恋」がもたらす弊害について考えることにしよう。

 

私が思う失恋の弊害の一つに、「個別事例の一般化」が挙げられる。

 

失恋した直後の人間は、「男なんてそんなもん」「女なんてあんなもん」という風に、それぞれの異性を一般的に広く取り上げて、それに呆れて諦めきったような状態になろうとすることがある。

 

異性全体を十把一絡げに批判して、それが全くくだらないものであると自分に言い聞かせる。
唯一無二の相手を選んだのは紛れもなく自分であるのに、その相手も所詮くだらない全体の一部に過ぎなかったと考えようとする。
自分の恋人選びが、判断力の欠如によるものだとは認めたくない。
相手が去っていった原因が、自分の落ち度によるものだとは認めたくない。

ここでは自己防衛本能が働いているようである。
失恋で傷ついた自分を、さらに自ら痛めつけるようなことはしたくない。
現実を受け止めれば余計に傷口は開きそうだ。
自分は判断力を欠いた人間だ。心通わせた人に愛想を尽かされるほどに不出来な人間だ。

 

思うに恋愛とは、極めて個別的な出来事である。
世界に一人の男と、世界に一人の女が出会って織り成す恋愛という物語は、まさに世界に一つだけの出来事だ。
「恋愛に教科書はない」としばしば言われるのはこのためで、一つ一つの恋愛模様はいずれも特異な事例であり、一つの解を当てはめることなど出来ないからである。 
恋愛はその性質からして、一般化にはそぐわないのである。
そしてその恋愛を織り成す男と女も、同じく一般化にはそぐわないのだ。

 

この一般化が進行すると、とても偏屈な意識が心にこびりついてしまい、異性全体を見下し、それを信じられなくなってしまう。
さらに悪化すると、もはや性の違いなど関係なく、人間そのものを一般化して見下そうとする。
こうなると自分の殻に固く閉じこもった、哀れな人の出来上がりである。
「もう恋なんてしない。」「もう誰とも親しくなんかならない。」


失恋の味はレモンの味。
レモンも少し口にすれば、適度に刺激的で健康的。そしてちょっと甘かったりする。
そんなレモンもそのまま置いておけば、知らないうちに腐っていく。
腐ったレモンはおいしくないし不健康。早めに目の前からどかした方がいい。
そして別の新しい果物を探した方がいい。