思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

自然に反する言葉

先日訪れた美術館で、中学生の団体が先生達に引きつられて鑑賞に来ていた。
どの子も課題となる感想レポートを手に持ちながら、限られた時間内でのクリアを目指していた。

 

横に解説が書かれている大きめの作品は取っ掛かりやすいらしく、多くの子が集まって課題を埋めていた。
友達と相談しながら、というより友達の書いている感想をチラチラ見ながら書いている子もいた。
それとは対照的に、一人で絵を見て歩き、気にいる絵の前でじっと佇んで、ようやく鉛筆を動かす子もいた。
それぞれ違った足取りで絵に向かっていく姿を見るのも、とても微笑ましいものであった。 

 

それにしても、絵に関する感想を書くというのも、なかなか難しい課題である。
あえて言葉によらずに絵という形で表現されている作品を前にして、見る側は絵によらずに言葉を使って感想を書くのである。
これは子供に限らず、大人にとっても大変な作業であるように思う。
大人の場合は見栄を張りたいのか、いかにも解説に書いてあるような難しい言葉を使って、さも理解しているかのような体裁を繕う人も多い。
そんな大人の姿を見ているからか、解説に群がったり友達の感想を参考にする子供も、先生から見られる体裁を考えて、ちゃんと見てちゃんと自分なりに考えましたよ、という感想を書いて課題を提出しようとするのかもしれない。

 

考えてみれば、絵のみならず、この世界は基本的に言葉では表されていない。
自然が見せてくれるあらゆるものは、いつも言葉では語りかけてくれない。
太陽は言葉なく昇り沈み、星は語らず瞬き消える。
動物達も、私にわかる言葉では話してくれない。
犬は黙って主人の後を歩く。虫は羽音だけを響かせて飛び交う。


この言葉は、人間だけが使うものとして生み出されたものである。
人間以外のどんな存在も、こんな言葉はおそらく使わない。
もしかしたら私が無知なだけかもしれないが、ともかく私の認識としては人間以外は使えない。
この言葉というものは、自然が与えてくれるものではない。
厳しい自然の中で、人間がより快く、より生きやすくするために作られたものである。
つまり、自然に対抗するために作られたのである。

 
そう考えると、言葉は自然に反するものである、と言えるかもしれない。
しかしそれゆえに、最も人間的な表現なのかもしれない。
それに対し、言葉によらずに表現される絵というものは、とても自然に近いものと言えるかもしれない。
そしてそれは最も人間からは遠い表現なのかもしれない。

 

あの美術館で絵というものを最も堪能し、また最も何かをつかんだ子の感想レポートは、案外何も書かれていないか、よくわかりませんでした、という言葉で終わっているような気がする。