思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

初詣

年が明けて頭に浮かぶ共通の大行事としては、初詣がまず挙げられる。日頃は信心深くない大多数の日本人も、この時期は皆で示し合わせたかのように神を信じるか、信じているような気になる。

よしんば全く神を信じていなくとも、初詣という行為自体に意味を見出す人もいる。大行列に並ぶこともいとわず、むしろ親族や友人と待機時間を楽しむことを望むかのように神社へ向かう。並んでいる間に新年への期待を胸いっぱいに思い描き、それぞれの願い事を打ち明けて笑ったり秘密にしてにやけたりするのである。

あえて初詣には行かないという人もある。宗教上の理由であったり、その人自身の信念が理由であったりする。
そのような信念を持つ人の中には、神に願いを叶えてもらおうとは思わず、全ては自分の力で実現しようという意気込みをあらわにする人もいたりする。
確かに大渋滞の中を車で何時間も走り、神社に到着してからまた大行列に何時間も並び、へとへとになった後でまた車を家まで走らせるよりは、その時間を少しでも自分の願いの実現のために具体的な努力をした方が得策かもしれない。
筋トレをしたり、勉強をしたり、本を読んだり、できることはいくらでもあるわけである。

 

初詣という行為そのものは、まさに神頼みというほかないものである。お金を投げ入れ、鈴を鳴らし、拝み、手を鳴らし、一礼して神に願いを伝える。これらの一連の行為の中では、願いの実現のための具体的な努力がなされているわけではない。それだけを考えれば、わざわざ外出などせずに家で作業でもしていた方が有益だろう。ではなぜ多くの人が初詣のために神社を訪れるのだろう?

  

あらゆる行動は、まず心にその源を発し、その心で描かれたイメージの強さに従って、実現のためのエネルギーが体の端々へと行き渡るものだと思う。心で強くイメージが出来ていないと、その動作はたどたどしく、実現もおぼつかなくなる。

思うに初詣とは、この心のイメージを強くするための行事である。一年の初めに、心機一転で気持ちの爽やかな時に、自分の願う最大のものを心に描き、神にそれを告げる。神に一礼して願いを告げる時、そのイメージは強く心に浮かび上がる。雑事に心を乱されていない時に描かれたこのイメージは、他の雑念に踏み入られようともなお心に存在しようして奮闘するだろう。

 

心のイメージの強さがその実現のための動作を決定づけるものだとすれば、この初詣という行事は大変意味のあることだと思う。
しかし、あえて神社に行かずとも、家でそのイメージを強くすることができるのならば、あえて時間をかけて神社に行く必要もなく、実現のためにより有効に時間を活用できそうである。

 

私としては、初詣はしてもいいし、しなくてもいいものだと思う。そして願いを持つことも持たないことも、それもどちらでもかまわないと思う。
それでもあれほどたくさんの人が神社を訪れているということは、やはり一年を良いものにしたいと考え、胸に願いを抱くのが人間の姿なのだろうと感じている。