思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

女たちのバレンタイン

明美の働く部署は、男性2人に女性3人の、合計5人で構成されている。その女性のうちの1人が、ここでは係長を務めている。もう1人の女性は、明美より2年先輩の、智子である。そして明美は、去年の春に入社したばかりの新入社員である。

2月14日のことである。明美は自慢の手作りチョコを職場に持参してきた。といってもわざわざ職場の人間のためだけに気合を入れて用意したものではなく、彼氏用の本命チョコを作ったときについでに作っておいた程度のものである。小さなハートマークがいくつも描かれた透明の袋に3個のハート型のチョコを入れ、袋は鮮やかなピンクのリボンで飾り付けて結んでいた。

「いつもありがとうございます!これ作ったので、よろしければ食べてください!」

男性職員2人は素直に喜びの声を上げた。社会に出るまで女性と縁がなく、本命のチョコなど母親か姉妹か近所のおばちゃんにしかもらえなかったような2人だったため、両者とも顔と耳を赤らめるほどに嬉しさと気恥ずかしさを感じていた。明美も義理チョコの渡し方には慣れたもので、全員が集まる場所で平等に同じ言葉をかけて渡すように気をつけ、嘆かわしい勘違いが起こらないようにした。

智子にも同じく渡した。智子はやや大きく目を見開き、口角をやや上げて硬い皺を頰に作りながら「あー、ありがとう。」と言った。

最後に係長にも渡そうとした。しかしその時にはすでに、係長は席にいなかった。周りに聞くと、御手洗いに行ったとのことであった。直接手渡しするのが礼儀だと感じたので、明美は係長の帰りを待ちながら自分の業務を進めた。ところが、1時間経っても係長は帰ってこなかった。すると男性職員側のデスクの電話が鳴った。それは係長からの電話であり、体調が優れないためこのまま帰るとのことであった。係長のデスクをあらためて見てみると、カバンや上着も置かれてはいなかった。

昼食の時間になった。智子が明美を連れ出し、行きつけの定食屋に連れて行った。智子は席に着くと、こんなことを明美に話し始めた。

「ごめんねえ明美ちゃん。実はねえ、昨日係長からLINEが来てね、バレンタインの日に職場でチョコを渡すのは無しで、って話だったの。係長ってそういうの嫌いなタイプでね、去年もそうだったんだ。だから私も今日は何も持ってこなかったんだけど、ほんとごめんね!明美ちゃんに連絡するの忘れてた!」

明美は少し身震いした。明美は、智子が以前から職場の男性職員の片方に目をつけており、最近急接近していることを思い出した。それはもちろんあの冴えない男を金づるとしかみておらず、婚期も締切に近づいてきたがゆえの打算的な買い物であることは明らかであった。明美だけが他2人の女を出し抜いて男に媚びを売っているように見えるこの状況は、おそらく智子からあの男に説明がいくであろうことが予想された。きっと女慣れしていない職場のあの男のことなので、智子が吹聴することを真に受けて、明美が性悪女であるかのような説明を信じてしまうに違いない。こういうことは早い者勝ちで、先に耳に息を吹きかけた者が優位に立てるものである。明美は自分も女でありながら、女は怖い生き物であることを強く理解した。

 

翌日、係長は普段どおり出勤してきた。明美は仕切りなおして、係長にチョコを手渡した。「これ、昨日係長にお渡ししようと思っていたんです。いつもありがとうございます。よろしければ食べてくださいね。」

すると係長は「ありがとう。」と言ってチョコを受け取った。思っていたよりも係長が不機嫌でもなさそうだったので、明美は一仕事終えたようで胸をなでおろした。係長は、明美から受け取ったチョコをデスクの端に置いた。それから一日中、係長がもう一度そのチョコに手を触れることはなかった。

翌日も、その翌日も、係長はそのチョコに触れることはなかった。すると一人の男性職員が、「係長が食べないなら僕がもらいますよ。」と言った。係長は「どうぞ。」と言って、彼にさっと手渡した。彼は嬉しそうに、数日前と同じような初心な反応を示しながら美味しい、美味しいといって食べ始めた。

明美はまたも、自分も女でありながら、女の怖さを理解した。そして職場のどの女よりも若く、また早く結婚できるであろう自分の立場を思い出し、心の中で罵詈雑言と優越感の嵐を巻き起こしながら、年を取る前にいち早くここから抜け出すことを固く決意するのだった。