思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

屋根の上の小鳥たち

工場の屋根にとまる小鳥の群れを見た。下から見上げる限りでは、屋根の縁にとまる姿しか確認できなかった。おそらく雀だろうが、それすら定かではない。

彼らが騒がしく鳴く声が聞こえる。いや、騒がしいと感じるのは、心にゆとりのない者だけだろう。そうではなく、彼らは楽しげに歌い合っていた。いや、歌い合うなどと、まるで小綺麗な言葉を使ってみても、彼らが実際に愉快な気持ちで合唱していたのかどうかはわからない。

彼らが屋根の縁に陣取る場所も、ある時には等間隔のようであり、またある時はまるで秩序などないかのように雑然としている。人間の男女が河原で仲睦まじくくつろごうとすれば、お互いに示し合わせたように等間隔になろうとするが、どうやら小鳥たちは特別な男女関係というわけでもなかったのかもしれない。いや、時々彼らが等間隔にとまっている間は、もしかしたらその間だけお互いの恋愛感情を醸し出し、くっつき過ぎず離れ過ぎずの距離を保ち、あわよくばお近づきになろうと図っているのかもしれない。

彼らは常に同じ場所にとまっているわけではない。数秒羽を休めてくつろいだかと思うと、すぐに鳴き声とともに飛び立つ。しかし飛び立つといっても、別の屋根に向かうほどの大移動ではない。工場の屋根のすぐそばに、葉が生い茂る一本の木がある。彼らはそこに向かって飛び立つのである。その距離はほんの何メートルか、という程度のものである。不意に彼らは屋根から飛び上がり、ふっと空中で半円を描き、羽を忙しなくばたつかせながら葉の生い茂る小枝にとまる。群れ全体が一斉に木に移動するわけではない。ある者は木に向かい、ある者は屋根に留まるのである。しかし不思議なことに、小枝にとまる者と屋根にとまる者とで、数の上で不均衡があるようには見えない。よくよく見ると、先ほど小枝にいた者が屋根に飛び移り、今度は屋根にいた者が小枝に飛び移るといったように、それなりの交通整理が行われているようである。それが意志の疎通によるものか、単なる偶然によるものかはわからない。そのようにして、彼らは屋根と小枝を行き来する遊びをしているのである。

今日見上げた工場の屋根を明日また見上げても、おそらく今日の彼らはもういないだろう。明日には誰もいないか、また別の群れが屋根に留まったり小枝に飛び移ったりしているのだろう。