嵐が丘への感謝
私が愛する小説の一つに、エミリー・ブロンテがこの世に残してくれた唯一の長編小説、「嵐が丘」がある。
この作品を初めて読み終えた時、落雷に脳天を貫かれるような衝撃があった。形容しがたいあるものが身体を通り抜けたと感じた。しかしそれが何なのかわからない。まさに嵐が猛風を巻き起こして過ぎ去り、その跡にぽつんと一人残されたようだった。身体がむず痒くなり、すぐにもう一度最初から読み始めた。1回目の通読ではあやふやだった小説の流れが理解できる。人物の相関関係もより明確になる。しかしもう一度読んでも、やはりこの小説を確かに掴んだという実感を持てない。とめどなく流れ行く大河に手を入れているような感覚である。しかし、ちょうど川で砂金を取るときのように、きらめく何かが少しだけ私の中に残るのを感じる。2回目にしてようやくである。
哲学者ショーペンハウアーが読書に関する姿勢を説いた著作があるが、その中で彼は、優れた作品は続けて2度読むべきである、と語っていた。単に2度読むのではなく、続けて2度読むのである。
「嵐が丘」に出会う以前の私は、どんな本でも一度通読するとひとまず満足してしまい、別の本に手が伸びた。同じ本を繰り返し読むことの大切さを理解していても、それはやはり遠回りにしか感じられなかった。素晴らしい本はたくさんあるのだから、一つの名作ばかり読んでいても仕方ない。時が来ればまた読みたくなるだろう。その時に読めばいい。
しかし「嵐が丘」は違った。もう一度読みたい、というよりも、すぐに読まなければならない、と思わせる何かがあった。
大河に流れる小さな砂金を見つけても、それを捕まえる網がなければどうしようもない。見つけて、すぐさま網を持ってきて捕まえようとしなければ、そこに砂金が流れていたことさえ忘れてしまう。砂金は小さな粒である。半端な網目ではすり抜けてしまう。捕まえたければ、網目を細かくするしかない。
優れた作品を繰り返し読むことによって、この網目はどんどん細かくなる。以前には取り逃がしていた貴重な金が、少しずつ手元に残るようになる。
「嵐が丘」は、回り道にも思える読み方が実は最も確実であり、最も実りがあるということに気づかせてくれた不朽の名作である。未だにこの作品を掴めていないのは、まだまだ私の網目が荒いからである。