思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

ガラスに手を触れないでください

美術館ではお馴染みの注意書きである。作品保護のためには、まず作品を保護するガラスから保護しなければならない。

普段美術館に行かないようなファミリーが何かのイベント開始までの時間潰しに展示室に押し寄せ、子供がベタベタと汗まみれの手をガラスにご機嫌に塗りたくっている場合もあるが、基本的に大人が堂々とガラスに両手をつくことは少ない。

しかし手を触れずとも、ガラスに自分が来場した痕跡を残す方法はある。前のめりに作品を覗き込み、顔をガラスに埋もれさせることである。顔は平坦ではない。真っ先にガラスに向かうのはその鼻先である。鼻先がガラス面にチョンと着く。ヒヤリとした冷たさを鼻先に感じてガラスから顔を離すと、自分の鼻頭の脂がガラスにこびりついているのを知る。

ガラスに付いた脂の周りをよく見てみると、つい今しがた付けた自分のもの以外の脂が多数ついていることに気づく。おそらく先客があったのだろう。脂がついている高さはどれもほぼ同じで、ところにより重なり合う部分もある。それはまるで拇印のようである。どれも似通った形をしているが、それぞれに個性がある。尖った鼻、団子鼻、色々な特徴を見せる。

あまり人気のない展示室に入ると、大変美しい状態を維持したガラスを発見できる。おそらくほとんどの人が素通りし、顔を近づけようとはしなかったのだろう。この部屋には人の痕跡がほとんど残っていない。ガラスの向こうから冷たく寂しい溜息が漏れてくるようである。

ガラスの脂の数は、人々の興味の印ではなかろうか。作品に食い入るようにして顔を近づけた人と、それを受けとめたガラスの痕跡。出口先でアンケートを書いてもらうよりも、このガラスの脂を数えれば、どの作品が人を惹きつけたのかがよくわかるかもしれない。