渋滞
公道では、実に多種多様な車が日々ひしめき合って走っている。
朝の通勤時間だけを切り取ってみても、寝坊してしまい、瞬き一つの時間も惜しみながら全速力で走り去る車もあれば、老後の悠々と流れる時間を噛み締めるかのように、急ぐ者など意に関せず、自分のペースでゆっくりと走り続ける車もある。
それぞれの車はそれぞれの事情を乗せて走っているのである。
上記の例は極一部の車を取り出しただけだが、
このように沢山の事情が一本の公道上でひしめいている限り、
「渋滞」というものは、起こるべくして起こるものだと言えるだろう。
渋滞とは、「各車の相対速度の違いにより発生する公道上の滞り」であると、この記事中においては定義づけしておきたい。
渋滞をなくす方法はいくらかあるだろう。
各車が常に周囲の車の速度に配慮し、常に適切な車間距離を保つならば、
この世から渋滞は一切存在しなくなるか、勘定にも入れなくなるほどに少なくなるだろう。
はたまた、各車がそれぞれの事情を一切持たず、皆が完全に等しい事情を持つ、という場合でも、同様の効果が得られるだろう。
しかし私は、そんな世界を望んではいない。
渋滞は、沢山の事情がこの世に存在することの証である。
それらの事情は、人々の心、想い、魂が積み重なって出来ている。
車は車単体で動いているのではなく、人が様々な事情と共に乗るからこそ動いているのである。
私は渋滞を見る時、少しうんざりするとともに、確かに今日も人が皆それぞれの生活を送っているということに気づき、ほんの少しだけ安心したりもするのだ。。
人々がそれぞれの事情を持って、精一杯生きている姿を、渋滞の中に垣間見るからである。