「曜日」による理解
誰かと何かを約束する際には、いつどこで、という点を確認する。
「何月何日」という点は必ず確認される重要事項である。
しかし、約束の際に「何月何日」という点だけを確認されると、私は少しだけ不安になる。
そこに「曜日」に関する情報がないと、約束の日程が少しモヤにかかったようになり、具体的なイメージがつきにくい。
これは、「曜日」によるスケジュール感に頼っているせいだと思われる。
「何月何日」というスケールは、一年間におけるただ一日である。
人が生きている間に経験できる年数は多く見積もって100年だと考えると、100回しか経験できないこのスケールはあまり馴染みのないものに感じられる。
それに対して「曜日」により把握される一週間のスケールは、より身近な存在となる。
100年生きる間に経験できる一週間の回数は、5200回となる。
100回しか経験できない一年間に比べると、経験回数の点で雲泥の差となる。
一週間のサイクルはすぐに巡ってくる。
何度も繰り返し巡ってくるものを数え上げるのはナンセンスだ、ということで、「曜日」というものが生み出された。
月火水木金土日
月は回る。
火は燃え続ける。
水は絶え間なく流れる。
木は根をどこまでも伸ばす。
金は天下の回り物。
土は巡って人になる。
それぞれが永遠の繰り返しの象徴である。
私たちは繰り返される一週間を、上のような繰り返しの象徴を用いて理解している。
私たちは「曜日」の概念を用いて、繰り返される一週間のうち今日がどのあたりか、将来のあの日はどのあたりか、というイメージを描くことができる。
この記事を書いている今日は木曜日だ。明日は金曜日でラストスパートをかけよう。
明後日の土曜日、そのまた明日の日曜日はゆっくりしよう。
月曜日は少しだるい日。火曜日はやや右肩上がり。水曜日は至って冷静。
そして木曜日はちょうど今日みたいな日。
「曜日」とは、日々の繰り返しを運命付けられた人間が生み出した、必然の発明だったように思う。