思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

切りのいい釣り銭

小銭が財布に溜まっているとき、レジで勘定をする際にはできるかぎりそれらを処理してしまいたい。
例えば360円を請求された場合、ちょうどその額が財布になければ、510円とか1010円などを払って、10円以下の小銭を減らすことを考える。
上手く財布の中が掃除され、かつレジの流れを滞らせることなくスムーズに勘定を終えることが出来れば、立派な仕事を一つ終えたような気分になり、密かに口角も上がるというものである。

 

しかしこの財布の掃除は、基本的にスーパーやコンビニなどで行いやすく、それらと性質を異にする場所では行いにくいものだと感じる。

 

病院のレジを引き合いに出してみよう。というのも、このことを考えたきっかけが、先日お世話になった病院での会計時だったからである。

私は病院で診察を受け、診察料を払うために会計受付まで行き、請求金額をお姉さんから聞いた。
金額は10円単位で端数が発生するもので、私は例のごとくその端数を綺麗に処理し、財布の中の小銭を掃除してしまおうと考えた。
しかしそれを考えたのも束の間のことで、結局財布の中の小銭には手をつけず、大きなお札一枚で会計を済ませてしまった。

 

なぜこの時、小銭に手をつけられなかったのだろうか?
それはおそらく、病院という場所が「金勘定を主に扱う場所ではない」と、自分で勝手に考えたからだと思う。

 

スーパーやコンビニは小売業であり、まさに商売という名にふさわしい仕事である。
商品にはわかりやすく金額シールが貼られており、それを見て買うか買わないかを判断するという具合に、まさに金勘定が柱となっている。
そんな環境だからこそ、レジでも上級者ぶって得意げに小銭の掃除ができるのである。

 

ところが病院となると、私としては金勘定を柱にして見ることができない。
体調が悪いときに駆け込む病院という場所は、まさに地上に建てられた慈愛の神殿なのであり、そこで私の体を見てくれる医者という存在は、これぞ救世主か女神といったような、ありがたい存在なのである。
そのような存在に対する感謝の念は、とても金などで表せるものではない。
こんな金などでよければいくらでも払いますという気持ちである。
形として会計は行うが、そこで発生するお釣りが後で財布を賑わすことなど些末な問題なのである。
小細工をして余計な小銭を出し、会計のお姉さんの手間を取らせたくはない。
速やかに終わらせ、爽やかに立ち去るのが感謝の気持ちの表れなのである。

 

このように考えてくると、切りのいい釣り銭を作りやすい環境は、レジが「金勘定を柱とする場所」に置かれている場合である、といえるかもしれない。

 

しかしこんなことを書いておきながら、すべて自分の思い違いのようにも思えてくる。
あの病院のお姉さんも、もしかしたら私から小銭を調達したかったかもしれないし、お姉さんがここぞという時のために貯めておいた小銭を、私のお釣りのために吐き出させてしまったかもしれない。
今度病院に行くときは、あえて小銭を掃除する試みをしてみて、それから改めて考えてみようかと思う。