思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

高校野球の観客

高校野球には独特の熱気がある。テレビ中継で見ているだけでは、実際の熱気の10分の1程度も味わうことはできないだろう。高校野球はライブ感の極みなのである。

この熱気が最高潮に達するのは、9回の逆転がなるかどうかという瀬戸際の場面である。勝負の緊張感と相まって、会場の熱気はますます高まっていく。この熱気の理由はどこにあるのだろうと考えてみると、それはどうやら観客にあるようである。というのも、彼らが劣勢のチームを応援するからである。つまり、会場全体が、劣勢のチームを勝たせようとするのである。

外野スタンドのライト側とレフト側で応援するチームが変わるかと思いきや、そんなことはない。その瞬間瞬間で劣勢であれば、観客にとってはそれだけで応援する理由となるのである。

では9回裏にさよならのヒットを放ち、逆転勝利を収めた場合はどうなるか。多くの人は逆転勝利したチームに大きな拍手と歓声を送る。負けたチームが応援席に向かって礼をする。礼をしたまま顔をあげられない選手がいる。彼の顔は涙で濡れているだろう。そんな姿を見た観客の手からは、今度は打って変わって、泣いている彼らへの割れんばかりの賞賛の拍手が鳴り響くのである。

応援とはなんであろうか。真に応援しているのは、スタンドから声をかけ続ける後輩部員や非レギュラー部員、チアリーダー達、力強い激励の音楽を送る吹奏楽部員、そして親族ではないだろうか。彼らを観客と呼ぶのはふさわしくない。彼らこそは応援者である。彼ら真の応援者は、たとえ自校のチームが対戦相手を完膚なきまでに打ちのめしていたとしても、劣勢である相手側を応援し始めたりはしない。

では観客とはどのような存在なのだろうか。それは文字通り、観る客である。彼らにとっては、グラウンドは演劇の舞台のようなものである。これからどんな風にドラマティックに自分の目を楽しませてくれるか、今か今かと待ちかねているのである。

ドラマティックとはなんであるか。それには予想外の出来事や、奇跡の逆転劇などが挙げられる。使い古されたドラマの筋というものは、これらのドラマ性を観る者に直観的に感じさせるために、いつの時代も多くの支持を得るのである。

言ってみれば、観客は特に応援などしていないのである。彼らがしていることは、グラウンドという舞台を際立たせる装置としての役割である。そこに深い考えはない。目の前で壮大なドラマを見たいという欲求があるのみである。9回の奇跡の逆転劇が見たいのである。

しかしこれこそが高校野球だと言われると、確かにそうなのかもしれない。何万という観客が作り上げる舞台に立つ若い夏は、もう二度とはやってこないのである。