思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

公的機関と世間知らず

学校や役所、病院など、ほぼ全ての市民が利用する機関が話題に上がる際、少なからず耳にする言葉が「世間知らず」という言葉である。学校の先生は大学を卒業してそのまま先生になるから世間を知らない、とか、公務員の常識は世間の非常識、とか、病院の先生は皆から先生先生と言われているから世間からずれていくんだ、とか、とにかくこれらの機関は世間から隔絶されているものとして表現されることがある。

世間とはそもそも何なのか?

世間とはおそらく、一人の人間をとりまく個別の空気のことである。この世間は一人一人異なるはずのものである。営業マンにはそれ、工場作業員にはそれ、主婦にはそれ、それぞれに特有の世間があり、また、営業マンの世間も一人一人の営業マンごとにこれまた全て相異なり、工場作業員も、主婦も一人一人で相異なるものなのだ。世間はそこに身を置いて見なければわからないものであり、一つの世間に身を置いたところで、他の世間を知ることはできない。はるか遠くの大陸がおぼろげに霞んで見える程度のことである。

世間とは世界のように広く捉えられるべきものではなく、全く個別の事柄なのだ。世の間で狭しく生きる一人の人間をとりまく物事の集合体なのだ。

しかし世間を見て世界を知ったように考えてしまう人間が多いのも事実なのである。月を見て宇宙の星々のことを知ったと考えてしまう人間たちのことだ。

営利を目的とする民間会社であれば、取引相手は自ら選ぶことができる。関わる必要のない会社とはまさしく関わることがない。見る必要のない他者の世間などを見ることはないのだ。

公的機関はそうはいかない。あらゆる性質をもった人間たち、つまり、あらゆる世間を持った人間たちがこぞってやって来る。ここで公的機関の世間と彼ら来客の世間とが衝突を起こす。月を見て星々を知ったつもりになっている来客には、相手方の世間は理解しがたく受け入れがたいものに感じられる。つまり非常識なものに感じられる。月見の人々の数は随分と多いため、次第にその声は多数派となり、公的機関への批判の声となる。

人は大人になるにつれて物事を客観的に上から見下ろすようになると言われているが、そんなことはない。自らが太陽となり、宇宙の中心に据えられているかのように、またあらゆるものを見晴るかすことができるかのように考えていることが多い。見えているのは目線の先、しかもごく手近な場所だけだというのに。

「世間知らず」とのたまう月見の人を見た時には、彼らのことを「自分の世間しか知らず」とでも呼ぶことにしようか。