思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

酒場の議論「崖際の妻と子供」

仮に自分の妻と子供が同時に崖に落ち、片方の手に妻の腕を、もう片方の手に子供の腕を掴んだとして、いずれはどちらかの手を離してもう片方を助けなければ皆落下してしまうとしたら、どちらを助けるだろうか?

 

 

「俺は嫁を助けるかな。子供はまた産めばいい。」

彼は結婚の契りを思い出す。いかなる時も支え合うと誓ったあの日を思い出す。子供との間で契りを結んだことはない。彼が永遠を誓ったのは他ならぬただ一人の妻であり、他に代えのきく存在ではない。

「嫁がもう子供を産めない年齢だとしたら?」

彼はそれでも妻を選ぶ。もし本当に産めなければ、養子でも貰えばいい。妻があっての子育てであり、妻なくして子育ては不可能だ、仮に男手一人で育て上げたとしても、それは本来あるべき形ではない。子供の健全な成長には母の存在が前提とされる。

「なぜ母親は必要なのだろうか?」

それは人間にとって地球が必要だというくらいに当然のことだ。人間は皆地球で生まれたのだから、地球とともに生きていかざるを得ない。同様に、母の胎から生まれ出たものは、母とともに生きていかなければならない。母のいない子供は、重力のない地上を彷徨うかのように心細い。

 

 

 

「俺は子供を引き上げる。きっと嫁もそれを望むだろうから。」

彼は妻と交わした言葉を思い出す。子供が生まれた日のことを思い出す。あの日、我が子を見つめる妻の姿は美しかった、慈愛という言葉が妻の体そのものを表しているように思えた。あの日から妻の愛も想いも未来も全て、我が子に降り注がれたのだ。妻の愛の結晶を手放すわけにはいかない。

「仮に子供でなく妻を助けたとしたらどうなるだろう?」

もし妻を助けて子を落としたとしたら、俺は妻に殺されるだろう。子を落としたということは、俺たちの愛も未来も全て落としたということに他ならないのだから。妻を愛しているのならば、妻を落とさなければならない。

「母なくして子を育てることができるだろうか?」

育ててみせよう。本当に女手が必要とあらば、新しい嫁を探しもしよう。落ちた妻もわかってくれるだろう、子供が生きているかぎり、未来に向かって伸びていくかぎり、俺たちの愛もまた永遠に息づいていくということを。

 

 

 

「俺なら三人一緒に崖から落ちるね。」

彼は自宅を思い描く。妻か子のどちらか一方を助けて帰る自宅を思い描く。かつて三人で囲んだテーブル、川の字で子を挟んで寝た寝室、洗面台に並べて置いた背の違う歯ブラシ。幸せの証が悲しみの遺物となってそこにある。三角形が三辺を伴うことで始めて三角形となり、そこに空間が生まれることを考えると、一辺でもかけたそれは三角形でなく、元あった空間を作ることもできない。

「三人から二人になることが耐えられないと?」

一度組み上げられた三角形は、そのうちの一辺を失うと途端に脆くなる。かけた一辺からあらゆる悲しみや苦しみ、後悔がなだれ込んできて、残りの二辺を懲らしめるのだ。徐々に萎れた二辺は倒れ込んで直線となり、二度と起き上がることはない。

「その直線はその後どうなるだろうか?」

魂を失い死んでいくだろう。愛する者達が片割れとなって死ぬのは悲しいことだ。いっそ死ぬのなら、三人で手を取り合いながら死ぬのが温かい。

 

 

 

「俺は三人とも助かる方法を探す。」

それは誰もが望む答えであり理想であった。問いの前提を覆す答えであり、議論の対象となり得るかは疑問だった。

「どうすれば三人助かるのか?」

状況として、夫が妻と子供をそれぞれの腕で掴んでいるということだが、それならば妻と子の距離はきわめて近い。まず妻が空いている片方の腕で子を掴む。その際、子を下にだらしなく垂らすようになるだろうが仕方ない。そうすれば夫は、子を掴んでいた方の腕が自由になり、両手で妻を引き上げることができる。しかも妻は片腕に子を掴んでいるのだから、妻を引き上げれば当然子も助けることになる。本当に大切なものは片腕でつかまえることはできない。両の腕で力一杯手繰り寄せなければ何も得ることはできない。