思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

足組み

多くの勤め人が帰路につく電車の中でのことである。

車内は満員御礼というわけでもなく、向かい合わせに並べられた座席シートには、およそ人一人分の間隔を空けて、示し合わせたようにお互いの領域を守り合いながら、一日の勤めを終えて疲れた人々が座っていた。縛りから解放された人々の手には、大抵何かしらのアイテムが握り締められていた。まるで仕事の時のように、もしかしたらそれよりも忙しく手を動かしながら、あてどもなくスマホの画面に指をこすりつける人。これみよがしにやや分厚い文庫本を手に取り、自慢のややお高そうなブックカバーについたしおりを、読みさしのページからふわりと空中に弧を描きながら外し、できるだけ前のめりの姿勢になって読もうとする人。特にアイテムを持たないがために、車窓の外を流れる見慣れた風景を仕方なく数秒見た後、網棚の上に貼り付けられた広告を左から右へ、手前の網棚から隣の網棚へ、10文字以内の短い文句の中に必ずと言っていいほど一つは読点が含まれている宣伝チラシを、あちこち気にも留めずに流し見たかと思うと、またも見慣れた外の風景に目を移すという動作を繰り返す人。このような人々が、それぞれの時間を誰からも口出しされずに楽しむことのできる、優雅でささやかな時間が流れていた。

この車内で座っていたとある若い男性も、贅沢な時間を享受していた者のうちの一人だった。黒のスーツに黒の靴を履いた若い男は、座席シートの左端に座り、座席の端から上に伸びる手すりに身をだらしなく預けるようにして、体を左に傾けていた。手にはスマホを持ち、他の乗客の例に漏れず、忙しそうに画面に指を上下にこすりつけていた。彼は使い古して少し剥がれ落ちすら見える黒の紳士靴を前に押し出し、左足が上になるようにして足を組んでいた。

ある駅に到着し、車両の左側の扉が開いた。数名の新たな乗客が乗り込んできた。一人の新顔は乗車を急ぐあまり、帰る客よりも早く足を車内につっこみ、体をのけぞらせながら、降りる客をすり抜けるようにして乗ってきた。この新顔は女性だった。茶髪で、下はありがちな濃い青のジーパン、上には赤のジャンパーを着ていた。年齢的に見れば、先の若い男性と同年代のようだったが、やや老けて見えると言ってもよさそうだった。

この女性は、急ぎ足で車内に乗り込むと、われ先にと空いている座席を、鋭い嗅覚とともに探し求めた。彼女は加齢臭のしなさそうな、先の若い男性の隣を良しとして、彼の横の空いている空間を目指した。

男性が足を組み、左足を前に出していたため、彼女は足に当たらないように少し身をよじりながら彼の前を通りすぎようとした。彼の突き出した左足を半ばまたぐようにして、自身の右足を無事に通過させることに成功した彼女は、惰性で左足も通過させようとした。しかしながら力強い右足ほどには左足は持ち上がらず、もう少しというところで彼の靴先と接触してしまった。この接触により、彼女のジーパンの左足の裾には横一文字の白い汚れが、小指一本分ほど生まれてしまった。

彼女はこれから陣取ろうとしていた席から視線を右に動かし、汚れの原因となった若い男性の顔を見つめた。彼女の目は半開きで、お前なんぞ目蓋を全開にして見てやる値打ちもないといいたげな表情であった。鼻からは一息、スッと瞬間吸い込んだ空気を、平常時の倍以上の時間と音の振動を伴って排出した。

若い男性は、この女性の腰あたりまで目線を上げ、半開き以下の目で見た。それは見たというにはあまりにも無関心であった。彼の目線は、彼女の腰より上に上がることはなく、すぐにまた自分の手元のアイテムに目を落とした。そして組んでいた左足をほどき、靴裏を床に「ダンッ」と響かせた。彼の両足は大股に開かれた。もしも乗客の誰かがその正面に立っていたとしたら、その不遜な座り方に耐えられず、迷わず別の車両へと移動したことだろう。その後彼は、恋するアイテムに一層集中する様をわざと見せびらかすかのように、ぐるぐると画面に指を走らせた。

それを斜め前に立って見ていたこの女性は、サッと身をかがめて左足についた白い汚れを指でバババッと素早く払いのけた後、彼の隣の席に勢いよく背中から突っ込んだ。その衝撃は、シートの反対側の端にまでギシッと揺らぎを与えるほどだった。彼女は右足を上にして、足を組んだ。右足の靴裏全面が、余すことなく彼の方を向くように工夫した。彼はその靴裏を一瞬チラリと横目で見た後、より一層自分のアイテムを愛するのだった。

電車が止まり、扉が開いた。新たな乗客が数名入ってきた。そのうちの一人が、彼女の前に立った。すると彼女は組んでいた足をサッとほどき、床に余計な物音を立てることもなく、静かに着地させた。足はいわゆる女性的にさっぱりと折りたたまれていった。その座り方は、まるでジーパンではなく、長くて柔らかなスカートを履いているかのようであった。

次の駅に着いた。彼女は立ち上がり、乗車した時とは異なる扉からスタスタと出て行った。それを横目で確認した例の若い男性は、今度は左足ではなく右足が上になるように、再び足を組み、愛するアイテムと優雅に戯れるのだった。