思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

最高の作文

 

日本で学校教育を受ける場合、多くの子供は作文を書くことになる。

 

「先生、あのね・・・」との文頭で始まる作文を、私はたくさん書いた記憶がある。

何か印象に残ったことや気になったことを、心の赴くままに徒然に書いた。

 

 

小学校に入って間もない、低学年くらいのこどもが書く作文は、大人が見れば文体も言葉遣いも構成力も、何もかもが稚拙である。文章にすらなっていないと思える場合も多いだろう。

 

 

しかしその作文は、大人には二度と書けそうもないほどの、優れた一つの「作品」なのである。

 

 

ノートにひたすら繰り返し書いてようやく身についてきたひらがなを駆使して、子どもはありったけの力をこめて文章を書く。

親や先生や友達との会話でなんとなく覚えた言葉遣いを真似しながら、まとまりもなく言葉にもできそうにない想念を、必死になって原稿用紙の上に紡いでいく。

 

そうやって出来上がった作文を見て、親は感動して涙を流すこともある。そしてその子を抱きしめもするだろう。

先生も、評価をつけなければならない以上、一応の相対的な評価はするが、どれも決して甲乙つけられるものではない。それを読む先生の表情は、いつになく優しく微笑んでいる。

 

 

これほどに読む者の心を震わせる要因は、それらの作文のどれもが、一つのかけがえのない「作品」として成立しているからだ。

 

 

それらの作品にはどれも、血で滲んだ爪痕が見える。その爪痕は、自分の力をはるかに凌ぐ高い壁にしがみつき、それでも少しでも登っていこうとして残った闘いの痕である。

 

その爪痕には、登った者の魂が込められている。登り方が下手であればあるほど、壁に残す爪痕は不恰好に増えていくだろう。しかし、如何に爪痕が汚かろうと、そこに込められた魂は、残された爪痕の数だけ見た者の心を震わせる。

 

 

「作品」とは、作者の魂が込められて初めて「作品」となる。

作者の魂が込められていないものは、あくまで「作品のようなもの」に過ぎない。

 

 

大人は意図的にこの魂を込めようとするが、小さな子どもは意図せずして魂を込めてしまうのである。

そんな子どもが書く作文は、どれも優れた「作品」というほかない。

 

 

大人になった者が見上げる高い壁は、こどもの頃のそれとは比較にならないほどに果てしなく高い。

私ももう一度小さなこどもの頃のように、その壁にしがみついて血まみれの爪痕を残したい。

 

 

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