思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

賞賛と批判

何かを成し遂げて誰かにその成果を見せるとき、私たちは何かしらの評価を受ける。

 

私が何かの評価を頼まれた時、「よかったよ」などとテキトーに言葉を返す時がある。

「よかったよ」と評価するときは、大抵の場合ほとんど何も見ていない。細かく評価するのもめんどくさいと感じているのである。

無難で角が立たない言葉なので、便利な言葉として使用しているだけである。

 

 

公園に置かれている彫像を想像してみよう。

誰が作ったのかはわからないが、遠くから見るととても綺麗に形作られているように見える。

彫刻にそれほど興味のない通りすがりの人は、チラッと一瞥して「すごいねえ」とだけ言ってその場を去る。

彫刻が大好きで古今東西の彫刻を研究している男は、その彫像の前で立ち止まり、「ふむふむ」とでも言いそうな姿勢で細部まで観察する。その結果、遠くから見ると完璧に見える彫像でも、間近でじっくり見てみると所々で粗があることがわかる。彼は彫刻の大ファンなので、誰が作ったのかわからない公園の彫像に関するメモを取り始める。

 

この彫刻ファンの男のように、何かをしっかりと評価する際には、時間をかけて「ここは良いと思うけれどここはだめだ」などと、良い点も悪い点もひっくるめて細かく見ていくものだ。

一番最悪の評価は、何も見ていない人間が発する「よかったよ」の言葉だ。この言葉を受けたときには、くれぐれも喜ばないように注意しなければならない。

細部まで見て批判してもらう対象にもなれなかったのだ。

 

しかし、この「よかったよ」の言葉で満足してしまう人も多いようである。

お馴染みの面子の馴れ合いの中で、お互いにとりあえず「よかったよ」を連発し合うことほど情けない図はない。

実際には毎度毎度「特に時間をかけて見るほどのものではなかったよ!」と言い合っているにもかかわらず、当人たちは言葉の真意に気づかず、お互いに満足感を得ているのである。

 

批判されている時ほど、真に評価されているのだと自分の肝に銘じることにしよう。