学校教育と個性
最近の学校教育では、子供の個性を伸ばすことに重点を置いて取り組んでいるようである。
子供達一人一人の個性を見極め、それを伸ばしてあげる教育をしなければならないという。
学歴偏重の学習から解き放たれる方策を、様々に打ち出しているという。
私としては、それは不可能ではないかと思う。
こと日本の学校教育においては、集団行動が重視されている。
学級別に見ても、教師一人に対し、30人以上の生徒が同じ教室で授業を受けていることが多い。
多人数を効率的に統率するためには、その指揮は一律でなければならない。
一人一人に個別の指示を出していては、学校はそれこそ24時間営業でもしなければ間に合わなくなるだろう。
本来、集団と個性は相容れないものである。
集団の中に入っていこうとするならば、個性は抑えられなければならない。
一方個性を重視しようとするならば、集団から抜け出さなければならない。
それぞれの漢字一字を見ても、集と個は全く正反対の意味を持っている。
現状として日本の学校は、集団行動を会得するためにあると思う。
それは私が望んでいるわけではなく、事実としてそうなのである。
あらゆる伝統的に受け継がれてきた学校行事は、どれも集団を意識している。
個性の育みを謳う目新しい授業にしても、全ては集団の中で行われる。
学校で営まれる日常は、集団をまず基本としている。
それも当然で、学校とは社会へ出る前の事前訓練機関なのである。
社会は集団により形成されており、それを見習って学校も集団により形成されている。
いきなり社会に出て再起不能にならないように、子供の頃から集団を意識させるのである。
このように集団を前提とする学校が個性と付き合うには、どうするのが良いのだろう?
私としては、何もしないことが良いのだと思う。
学校が個性を育もうとするときには、すでに全体に対する働きかけになっている。それは統率の構造上仕方のないことだと思う。
そのようにして意識させられる個性は、すでに純粋な個性ではなく、お仕着せのものに過ぎない。
個性とは、子供たちが内に秘めているものであり、それは潰されなければいずれ花開くものだと思う。
お仕着せの個性は子供のそれを伸ばす以上に、押しつぶしてしまう危険性の方がはるかに高いのではないかと思う。
学校教育という一次元における集団と個性の両立は、現状では難しいと感じる。
少なくとも日本の学校教育の環境に鑑みると、個性を伸ばす場所は学校以外にある気がしてならない。