煮るか焼くかの選択
「煮るなり焼くなり好きにしろ」という言葉がある。
追い詰められてもはや成す術もないとき、両手を挙げて言う台詞のようである。
私のこれまでの人生では、それほどまで人に追い詰められたことはないし、追い詰めたこともない。
しかしこの先の人生でそのような場面が訪れないとも限らない。
正常な判断ができる今のうちに、「煮る」のがいいのか、「焼く」のがいいのか、考えておくとしよう。
ちなみにこの記事では、上記二つの行為を比喩的な意味として捉えることとする。
まずは「煮る」ことについて考えよう。
この言葉のイメージとしては、相手をじらして痛めつける、というイメージであろうか。
水とともに食材を鍋に入れ、じわじわと下から火で煮詰めていく。
水が熱されてお湯となり、食材もそれに伴って仕上がっていく。
相手も最初は何のこれしきと余裕の表情を見せるが、徐々に悪化していく状況に混乱を隠せなくなるだろう。
それでは「焼く」ことについても考えよう。
こちらは、「煮る」場合よりも早く効果が現れる。
直接フライパンの上に食材を乗せ、直下で火を炊き熱していく。
食材とフライパンが直に接しているので、焦げ目もすぐにつくし、変化も目で見てすぐにわかる。
相手はその熱さと痛さで気を失うかもしれない。
死刑を実施するにあたり、囚人の苦しむ時間を少しでも短くしようとギロチンが考案されたが、それに類する人道的な観点からすると、「焼く」方が時間としても短く済むので望ましいだろうか。
しかしそれは、相手が「焼く」に値する人物であると、確たる自信がある場合のみ実施するべきものである。
曖昧な状態で焼き始め、途中になって「やっぱりやめましょう」は通じない。
すでに相手は焼けているのである。
確たる自信がないのなら、「煮る」のが良いのではないか。
場合によっては煮ている間に、その行為の間違いに自分が気づくかもしれない。
煮る場合はじわじわと進行していくので、タイミングを誤らなければまだ中止も可能だろう。
「煮るなり焼くなり好きにしろ」と言われたのなら、基本的にはどちらでも好きにしていいだろうが、状況に応じて選択するのが良さそうだ。
先の考えによると、「煮る」には遅効性、「焼く」には即効性があるのが特徴である。
ちなみに私は優柔不断な性格なので、ひとまず「煮る」ことから始めるかもしれない。