思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

老師との対話「種蒔き③」

若者

 

はい、まだあります。抜け落ちていた第二の点は、その種が蒔かれる土地の種類への言及です。

先程は種の種類について触れましたが、それら多種多様な種と同様に、種を受け取る土地もまた多種多様であるということです。

一口に土地と言いましても、それらは温暖な気候や寒冷な気候、また空気の薄い高所であったり湿地帯のような低所であったり、実に様々な環境の元に置かれているわけです。そしてこれらの環境が異なれば、そこで開かれる土地もまた異なるのです。

先ほど老師さまは、この土地というものがまさに教育を受ける者を指すとおっしゃいましたが、私もそれに同意します。

それでは、私がつい今しがた挙げたような土地を取り巻く環境というものを、教育に当てはめて考えてみましょう。話をわかりやすくするため、あえて子どもに限定して考えてみます。文字通りの土地について言えば、先程も挙げた通り、気候の寒暖や地形の高低などが周りの環境を形成していたわけですが、この土地を子どもに置き換えて考えてみますと、それを取り巻く環境とはまさしく親や家庭環境、またその子どもを取り囲む数多くの外的環境であると言えるでしょう。

この中でも特に子どもに強烈な影響を与えるのは、おそらく親であるはずです。子どもは親の背中を見て育つと言いますね。あえて親が我が子に言葉によって語らずとも、常日頃見せているその姿によって日々子どもを教育しているわけです。当の親はこの無言の教育に自覚がないかもしれませんが、むしろ言葉を交わす時間よりも無言の時間の方が圧倒的に多いのですから、すべからく全ての親はその影響力を自覚するべきだと思います。まだ子どももいない私のような若輩者がこんな偉そうなことをいうのも過ぎたことかもしれませんが、間違ってはいないはずです。

少し話が逸れてしまいましたが、本筋に立ち返りますと、今挙げたような様々な環境も含めて、これから種を蒔こうとする土地の種類に関する知恵を十分に備えた者でなければ、優れた教育者とは言えないだろう、ということです。というよりむしろ、その土地を取り巻く環境をこそよく知る者でなければならないはずです。

文字通りの土地についても、それは明らかです。穏やかで温暖な気候の元で育てられた土地と、厳しい寒冷な気候の元で育てられた土地とでは、それぞれ全く異なる特徴を持つはずです。特徴の異なる土地であれば、当然そこに蒔かれる種も異なってきます。温暖な気候の元でよく実る種をその同じ性質の土地に、寒冷な気候の元でよく実る種をその同じ性質の土地にそれぞれ蒔いてあげることで、最大の収穫を得ることができるのです。

教育についても同様です。これから教育を施す相手を取り巻く環境がどのようなものであるのか、よく知らなければなりません。相手が子どもであればその親に注目し、例えばそれが気の強い親であるのか気弱な親であるのか、金遣いが荒いのか節約を心がけているのか等、多種多様な性質を観察し、どんな性質を持つ親が子どもにどのような影響を与えるのか、知識と経験により知っていなければなりません。

親や家庭環境など、子どもを取り巻く環境をよく観察できていれば、もうその子自身を観察できたも同然です。なんといっても小さな子どもは、まだ自分の考えというものが確立されておらず、その思考などはほとんど周りの環境によって支えられているからです。むしろ、その子だけを見るようなことをすると、途端に何を与えればいいのかわからなくなる恐れがあります。例えば、もし文字通りの土地そのものを、それが本来開かれていた環境からそっくり削り取って、土地それだけを平らな場所に運んできて順番に並べてみたとします。確かに土地それだけを見れば、どれもまだ大変柔らかく、あらゆる種を迎え入れる用意ができています。しかしそれがどんな環境から削り取られてきたのかがわからなければ、その環境に適した種を蒔こうにも蒔きようがないのです。それと同じように、教育を施す対象となる子どもを知るには、その子どもを取り巻く環境を知らなければ、どんな知識を与えればいいのかわからなくなるはずです。

長々と一人で語ってしまいすみません。とにかく、抜け落ちの第二の点は、種を蒔く土地の種類に関する言及です。もっと言えば、土地を取り巻く環境に関する言及です。

そしてこれまで私が取り上げた、第一の蒔かれる種の種類、そして第二の種を蒔かれる土地の種類に関する知恵は、双方とも種蒔き人にとって必要不可欠なものであり、いずれか一方のみを備えていたとしても、他方に関する知識が不足していれば、その者は優れた種蒔き人とは呼べません。これら二つは互いに密接な関係を持っており、いずれかが欠ければ全体が不完全なものになるのです。