思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

追想夜

夜には一人で歩いた。別に邪魔するやつもいなかった。あの門はいつも開いている。ここには門限なんてないんだ。お、あんたは今帰りかい。名前も特に知らないけど、きっかけさえあれば知ってたかもしれないし、もしかしたら今日一緒に出歩いてたかもしれない人よ。あんたは今どうしてる。顔も思い出せないけど、何度も何度もすれ違った気がするよ。

ああ、ここも通ったんだ。夜によく一人で歩いたんだ。川沿いに生えた名前も知らない草っ原から流れてくる匂いが好きだった。この匂いを良い匂いだと感じられる美意識の持ち主は、自分以外にはそういないだろうと思った。何で昼間にはこの匂いがないんだろう。夜だけなんだ。夜のこの場所だけなんだ。鼻から頭に抜けて、頭の中を一回りして全身の毛穴から出て行くような爽やかさだ。真に浄化されるとはこういうことを言うのだ。

川沿いの腰掛けで身を寄せ合ってるあいつらは誰だろう、別に誰だっていいんだけれど。夜ってやつは気楽なもんだ。あいつらも昼間には別々の空間で我慢に我慢を重ねて一人で過ごして、ようやく今ここで歓喜の邂逅を果たしたんだ。よろしくやってよろしい。夜は若者のためにあるんだ。

音楽が聞こえてくる。これは音楽だろうか。とても音楽とは呼べない気がする。そうだ、あの下手くそ連中がたむろして部室でギャンギャン鳴らしてるんだ。うるさくてとてもじゃないが鑑賞には堪えない。でもなんだろう、cdで聞くプロの音とは違う何かがあるような。あんな下手くそ共がcdなんて絶対に出せないし買わないけど、今聞こえてくるやつは別に聞いてやってもいい。あいつらのアホでバカな笑い声も混じっている気がする。ある時期だけしか出せないし、聞こえない音。

虫の鳴き声がさっきからずっと聞こえてる。明日の朝までずっと聞こえてるだろう。今日あそこで鳴いたやつは、明日の夜もあそこにいるんだろうか。別に虫一匹が席替えしたからって、毎日聞こえるこの鳴き声が劇的に変わるわけじゃないけれど。

あの人たちはどうしてるだろう。今頃何をしてるだろう。きっと自分よりは良い時間を過ごしてるんじゃないかな。こんな出遅れた一人歩きは誰もしてないんだ。いやいや、これこそ選ばれた者のみが持てる至福の時だ。この時間こそが幸せなんだ。後ろから駆けて行っておどかしてやろう。こんなに面白いもんがあったって言って笑わせてやろう。

車のヘッドライト、原付のヘッドライトが、向こうの道路を同じリズムで次から次へと走り去っていく。こっちから見ていると全然速く見えないけど、走っている方からしたら全力なのかな。そんなに詰めて走っても時間なんて何も変わらんぞ。ほれさっきの原付と並んだ。

星が見える。街の灯りで少し霞むけれど、今日も空にちゃんとある。よしこのベンチで横になろう。寝転んで見上げるとさっきよりもっとたくさん見える。この空をこんな風に見ている人が、今この世界でどれだけいるだろう。あの人の顔が空に浮かぶ。あいつの顔も、あの先生の顔も空に浮かぶ。