非属人的情報の妄信
自分で気ままに記事を書いていて最近強く思うことがある。
それは、世に氾濫する情報のいい加減さである。
私は記事を書くとき、自分の考えを一番大事にしている。
そのため、知識に誤りや偏りがある場合も多々ある。勝手な思い込みとともに自分の考えをネット上に公開しているわけである。
私のような情報の発信方法は実にいい加減で、信憑性のかけらもない。
しかし世に蔓延する情報というのは、案外私が書く記事のようにいい加減なものであるように感じられる。
インターネット上に無造作に置かれている情報は、情報そのものだけを見ていると、どうも正しいことを言っているように感じられる。皆が利用している安全な情報のように感じられる。
インターネット検索をして、一番最初に目に映るページの情報は、どうも真実を語っているように思えてくる。
これだけ多数のホームページが乱立している中で、一番最初に表示されている情報なのだから、きっと正しいに違いない。他の大勢の人たちもきっと利用している安全な情報に違いない。
どこの誰が書いたかもわからない情報を、さも信頼できる情報のように感じ、情報収集をしているのである。
文字だけの情報に対し、なぜこれほどまでに無防備でいられるのだろうか?
どうもこれには、「情報の属人性」が関係していると思われる。
直接対面して会話をし、その人から情報を得る場合、「この人が言うのなら本当なのだろう」「こいつの話は信用ならない」などと、話す相手を見て情報の信憑性を判断することが多い。
~の遺言を守る、~先生の教えを守る、といった具合に、人の心に情報が強く残る場合には、誰が語った言葉なのかという「属人的要素」が強く作用している。
情報に属人性が保持されている限り、私達は情報の取捨選択に対して敏感であり保守的である。
ところが、文字に起こされた情報からは属人的要素が排除され、残るのは情報そのものとなる。情報が情報そのものとなったとき、私達は途端に無防備となる。
自分の知っている頼れる人が語る言葉はいつも私を守ってくれていたが、今はもう守ってくれない。ここには知っている人は誰もいない。
今目の前にあるこの言葉はどうだろう?ふむふむ、みんなが聞いている言葉だし、それなりにしっかりした文章だし、信頼できそうだ。これでお目当ての情報は手に入れたぞ!
文化の発展とともに、ますます非属人的情報は氾濫していくだろう。
情報そのものしか見ることができないとき、私達は非常に無防備である、ということを覚えておかなければならない。