思考のかけら

日々頭に浮かんだことを、徒然に雑然と書いていきます。

自転の認識

月が大きく美しく見える秋の季節は、私のお気に入りである。
昨日も夜空に浮かぶ大きな月に見惚れていたのだが、その際に次のような一つの事実に気づいた。

 

それは、「私は自転を認識できていない」という事実である。

 

私の立つこの地球は自転しているらしく、私から見える月も同じく自転しているらしい。
しかし、月の表面に浮かぶ毎度おなじみのウサギらしき模様を見ていると、どう考えても月が自転しているとは考えられない。
月が自ら回っているというのなら、その模様は少しずつでもずれていきそうなものだが、子供の頃からあの模様は一向に変わる気配がない。
さながら一枚の切り取られた丸い絵のように、時にはその一部を影で隠したりしながら、夜空をおなじみの線を辿って動いているだけとしか考えられない。

 

さらに私は月の自転に加えて、この地球の自転も認識できていない。
どうやら常に自ら回っているらしいのだが、それを実感できた試しがない。
今こうして記事を書いている間も回っているはずなのに、私の座る位置は微動だにしない。
果たして本当に回っているのだろうか?

 

自転しているはずの夜空の月を、私はこれまで何度も眺めてきた。
自転しているはずのこの地球から一歩も出ず、ずっとこの上で生活してきた。
とても身近に寄り添って生きてきたはずなのに、それらの自転を認識できた瞬間が一度もないのである。

 

学校で学んだ理科の教科書によると、確かに地球は自転しており、ついでに月も自転しているはずだ。そして太陽もその他の星も、皆自転しているはずだ。
私は覚えたての知識を引っさげて、「地球は自転してるんだよ!」と親に自慢げに話していただろう。

 

コペルニクス的転回という言葉は、地動説を提唱した人物の名にちなんで命名されたものらしいが、私としては、自転という事実を知ってはいながら、それを一度も認識できていない自分に気付けたことこそが、まさにコペルニクス的転回とも言うべきものである。
自分の見方を大きく一転してしまうほどの大発見である。

 

「事実を知ってはいながら、その事実を認識できていない自分」を発見できたことは、私にとって素晴らしい出来事だった。
自分の認識から物事を考えようとしている今の自分にとって、これは今後に活かされる貴重な出来事だと思う。

 

ではこのような状態にある私は、果たしてその事実を知っていると言えるのか?
知っていながら認識できていない事実は、果たして私にとっての事実と言えるのか?
それを「私にとっての事実ではない」として切り捨てる行為は、望ましいのか、望ましくないのか?

付随して沸き起こる様々な疑問について、これからじっくり考えていくことにしよう。